「二人の幸せ」 「…ふわ…」 顎が外れそうなアクビが出た23時。くたっと机につっぷしそうになる。 (数ヶ月前だったら、一緒にソファでテレビでも見てる時間なのに…) まだ帰ってこない彼の人を思って呆けそうになる気持ちをおさえ、は目の前のノーパソの画面に焦点を合わせた。 2月。藤田徹の勤める自動車学校へは、早くも春の免許取得を目指し学生達が押し寄せ始めたころで、 彼の帰宅時間は近頃どんどん遅くなっていた。 そして佐藤は、来る春の卒業に向け、卒業論文の修羅場を迎えていた。 多忙な二人の過ごす家は、荒れ放題かと思いきや、 ここは主夫藤田の鉄壁により、美しい状態が保たれていた。 (私って本当に幸せ者よね…ご飯もちゃんと食べれてるのは徹さんのおかげだわ…) 1人暮らし中のことを思い出し、はしみじみ頷いた。 (文句のつけようがないよ…本当に…) それが最近のの悩みらしい悩みだった。 贅沢な悩みであることは承知の上で、 彼女がこれまでの人生を振り返ると、今があまりに充実していて、恐ろしくなるのだ… 自分がこんなに満たされていて良いのだろうかと。 今日だって、なかなか論文が進まず、自分へのため息が止まらない。 自分にしか文句がつけられない環境で、こんなに不安定な自分の不甲斐なさが、堂々巡りで襲ってくるのだ。 こんなときは、早く大切な人の笑顔が見たくなる。 その笑顔を見ている間は、絶対に大丈夫だと思えるから。 (これが弱くなるってことなのかな…) 1人のときは感じるのことのなかった弱さに、は少し苦笑した。 一方、想い人こと藤田徹は、自動車学校を出ようとしていた。 (しまったな…) 今日は8時過ぎに帰ることができた。 しかし夕食を共にするには少し遅く、今から帰っても勉強の邪魔だろうと思い、 新しい仕事に手をつけていたら、ついこんな時間になっていた。 2月の容赦ない外気に触れ、藤田はため息も凍るような気分になった。 建物と駐車場の車のほんのわずかな距離でさえ、いとも簡単に彼の気持ちを冷やしてしまう原因は、 の他ならない。 近頃、卒業に向けた論文作成で、のいつもの覇気が全くない。 そんな彼女にどう触れてよいか戸惑い、以前は二人で過ごしていた時間を、 家事や仕事に費やしてしまっている。 (出会った頃なら――こんなことはなかったな…) 自動車学校にくる学生なら遠慮なく厳しくできる。 それは、彼らが必ず晴れやかに卒業していくことを願ってでもあり、信じてもいるからだ。 (のことだった信じている…しかし…) 自動車学校での試験とは違い、今の藤田に手助けできることは何もない。 そして何より、藤田は彼女のことを知りすぎてしまったし、 彼女も藤田のことをよく理解してしまっているのだ。 藤田が厳しい態度をとったとしても、彼女はそれが藤田の気遣いだとわかってしまう。 だったらうんと優しくしてやりたいと思うが、それは彼女を誘惑してしまうことを藤田はわかっている。 (自惚れかもしれないが…お前の気持ちが手にとるように分かる…それがこんなにも辛いとはな…) エンジンをかけ、帰路につく。 いつもよりずっと空いた道が、藤田の気持ちを少し良くしてくれた。 (もし、お前にも、俺の気持ちが少しでもわかるのなら…) 今日は面と向かって元気付けてやろう――そう、心に誓った。 ガチャ… 日も変わろうとしている夜も遅くに、二人の家のドアは開いた。 「ただいま…」 そう言うと、奥から足音が聞こえてきて、返事が聞こえた。 「おかえりなさい。お疲れ様」 玄関にでてきたを、彼は笑顔で迎えた。 「徹さん…(゜。゜)」 は、ずっと恋しかった笑顔を突然目の前にして、喜びよりも先に驚いてしまった。 「何ぼーっとしてるんだ。まだやってたんだろう? コーヒーいれていくから、少し見せてくれないか。誤字脱字、論理的矛盾点ぐらいは見つけてやるよ」 「え…?」 「俺の経験からいくと、今の慌しさ一番ケアレスミスを誘発するのに、それはチェックする時間がないからな」 「それはそうかもだけど…でももう遅いし、徹さんも疲れているでしょう?」 「…俺がそんなこと言われて、じゃあ寝るなんて言うと思ってるのか?」 彼が少し冗談まじりにそういうと、はクスリと笑った。 「ううん…徹さんの言い出したら聞かないところは、よく知ってる」 「まるで欠点みたいな話し方だな」 「それに困っちゃった記憶の方が多いからね」 「それは悪かったな」 今度は二人で笑う。そして二人とも気がついた。 自分が笑うと、相手も笑うのだということを。 「徹さん…ありがと」 「…こちらこそ」 「…え?」 小首をかしげて見上げたを、彼は優しく抱きしめた。 「今…お前が幸せを感じていることが…とても嬉しいよ」 「徹さん…」 ぽけーっとしてしまっているの顔を、彼は今度は悪そうに笑いかけた。 「よし、それじゃあビジバシやるから、覚悟しとけよ」 「・・・はーい」 「それと、この授業料は高くつくから、それも覚悟しとけよ」 「・・・・・・・・・・・・・えーーーーー!」 どのぐらい高くついて、どんな方法で支払ったかはご想像にお任せして、 寒い冬の夜、若い二人の甘くて熱い夜がふけていったのでした。 -END- |